青鞋的身体
青鞋的身体
関 悦史
阿部青鞋の俳句には、寸断された身体のイメージがしばしばあらわれる。
心臓は能無しにしてうごきけり
結局はさびしがりやの筋肉よ
皮膚だけを洗う皮膚だけを洗う
あたたかに顔を撫ずればどくろあり
手の腹はまだよく知らぬところかな
左手に右手が突如かぶりつく
くすりゆびいよいよ繭をつくりたき
なか指にしばらく水をのませけり
ゆびずもう親ゆびらしくたゝかえり
ゆびの日といふ日も欲しと思ひけり
親ゆびをおさへてあそぶゆびを見る
水鳥にどこか似てゐるくすりゆび
笹舟をながして指をながさざる
これらは特定の器官が主体から離れ独立したように振舞っているだけの句だが、実際に身体が破壊され傷口を見せている句も少なくない。
ぶりの血を見ながら牡蛎を買いにけり
寒鮒のどれこれとなく血がにじむ
鶯や藪ずりさがる崩れ山
「秋草をかたしかたしと牛が食べ」といった牛が主と見える句においても同じであり、この場合は「秋草」が咀嚼されてゆくさまが主と取れる(「草」ではなく「秋草」であり、食物としては異物感が際立つ)。「柔らかなあぶらで向日葵がかかれ」では統一された向日葵のイメージが「柔らかなあぶら」へと還元され、「すこしの血はたらきて飛ぶ寒雀」も出血=死の様相を内包しており、「のこのこと幹をつたつて散る桜」「老梅のおのが花見る姿かな」も幹と花という器官相互の解離が顕著である。「ぶりの血」の句等もたまたま欠損を見て驚き、リアルに感じて詠んだといった初心者の嘱目句からは遠いところにある。
しかしこれら寸断のモチーフは必ずしも悲惨でもなければ苦痛でもなく、「指」の一連に顕著なようにむしろ伸び伸びとして喜ばしいことも多い。
反対なのが「全てがあらわになってしまう句」である。
寒雀みなあらわれてしまいけり
地曳網おそろしければ吾も曳く
半円をかきおそろしくなりぬ
統一された全体像があらわになることは忌まわしく、おそろしい。これはラカンの《鏡像段階》理論をなぞった事態である。「ラカンによれば、子供は、自分の体の動きとその鏡像の動きが一致することに、たいへん喜ぶ。この歓喜ないし「こおどり」の理由は、きわめて深いところにある。鏡の現象は、同一化の契機として理解されなければならない。すなわち、「主体が或る像を[自分のものとして]引き受けるときに、みじからに生ずる変形」である」(レイモンド・タリス『アンチ・ソシュール』)。幼児はそれまで不定形の開かれた混沌として感じられたみずからの存在が、みずからの肉体という安定した像に変形するのを目のあたりにし歓喜する(同書から孫引きするとジャクリーン・ローズは歓喜の要因を「鏡像段階の重要な要因の一つは、子供が、栄養も人に頼っているし、身動きも比較的不自由な状態にありながら、子供にはねかえってきた像は形も定まり、安定しているので成熟の行方を予想させるという点にある」と指摘する)。
しかしこの自己像は鏡を介した虚構的なものであり、「わたしの精神的恒常性を象徴する」と同時に、「それがのちに自己疎外する運命をも予示する」(ラカン『エクリ』)ものとなる。
自分の全体像が見えてしまうことはそのまま同時に自己疎外なのだ。「地曳網おそろしければ吾も曳く」はどんな怪物が上がるかわからぬから恐ろしいのではない。全体が見えてしまうこと自体が恐ろしいのだ(「吾も曳」くのは、全体像を見せられるだけに終わるよりは動きに組み込まれる方がましということであり、恐怖に魅入られて破滅衝動に身を任せているだけのことではあるまい)。
「半円をかきおそろしくなりぬ」はこの方向の最も純化されたかたちの句である。半円を描き続ければ円が完結してしまい、その瞬間円と主体とは分離され、疎外されてしまうのである。
「指」その他の句に執拗にあらわれる「寸断された身体」は、鏡像段階を経る前の開かれた自己イメージである。そこではまだ自己と外界との区別はなく、つまり自己がそのまま世界の中心であり万能感と愉悦に満ちた不定形の存在である。鏡像段階を経て力強い統一にいたった自己はそれと引き換えにこの愉悦を失う。青鞋の句はひたすらこの機微に関わる(直に赤ん坊を詠んだ句も多いのだが、あきれたことに「万物とわかれて嬰児泣きじやくる」「大笑いしながら浮かびくるくらげ」といったラカンの図解じみた句まであるのだ)。寸断を喜ぶといっても神経症的な自殺願望などとは関係がない(それは虚構の自己像を受け入れた先の話であろう)。そして青鞋はそうしたモチーフをもっぱら内在的に描く。「手の腹はまだよく知らぬところかな」を、永田耕衣の「てのひらといふばけものや天の川」と並べれば見やすいが、青鞋は「まだよく知らぬ」と身体の一部の異界性を表出するだけであり、「天の川」との照応から自己の身体を広大で概念的なコスモロジーに位置づけるといった身振りはとらないのだ。
ひたいから嬉しくなりてきたりけり
こめかみを泥のごとくに愛すべき
ひるねからさめたるうしろ頭かな
これらも寸断された身体の句だが、解離しているばかりの手や指とは違い、主体をも「嬉しく」させている。自分の視界に入る分対象化しやすい手や指に比べてひたいやこめかみはそれこそ鏡を介さなければ見えぬ部位であり、さらに自分の意思では動かせないので統一された自己像という虚構を強める役にはほとんど立たない。そうした事情が相俟って鏡像段階以前の統一されない多幸的な身体感覚を呼び起こす機能を果たしていると思われる。他に「目の見えぬ角笛になりたかりけり」という句もある。
かたつむり湖畔に踏まれうれしがる
かたつむり踏まれしのちは天の如し
ここでも身体像の破壊が喜ばれているが、踏まれる場として「湖畔」が呼び出されているのが目を引く。「湖」は広大な自足にたゆたう不定形の領域であり、かたつむりはそこへ戻ることを喜んでいるのだ。踏まれた後の「天」も無論鏡像段階以前、自己と世界とが分離する前の空虚にして極楽の相である(これが逆に虚構の自己像を引き受けようとすれば「かたつむり生きて居らむとしてころぶ」となる)。「大きくて家庭の如きかたつむり」の場合も、複数の成員によって成立する「家庭」に壊れやすさ、バラバラになることへの志向が秘められている(「いたずらをしたるが如く葱白し」「葱の肌白くて白もいらぬかな」の非物質的な「白」も機能上「天」に等しい)。
おろそかにくらせと空蝉に言はれ
これは反語的に「ひたむきに暮らせ」といっているわけではない。空蝉は文字どおり「おろそかに」暮らせと言っている。正確にいえば、おろそかであれひたむきであれ「人生」という説話的・経時的なまとまりは全て虚構の自己像を受け入れた先の話であり、そんなものには目をくれずに壊れよというメッセージを体現するものとしてこの空蝉ある。
空蝉もたしかに鳴いておりにけり
空蝉のなかにも水のひろがりて
空蝉も空虚であること自体によって鏡像段階以前の不定形の生を営み、楽しんでいる。こうした鏡像段階以前の開かれた(開いてしまったというべきか)身体のありようは自己と外界の区別をおのずと消失させ、両者が渾然一体のシステムとなっていく。
静かさや鼻の下から雪がふる
蜜蜂の箱がときどきこみあげる
上くちびる下くちびるやいなびかり
黄落のポプラのあぶら汗を見る
筋肉が緊張すればすみれ咲く
てのひらをしたへ向ければ我が下あり
へへへと笑って夏の日が昏れる
パンの耳これはどこかの波打際
アンドロメダ星雲の如しわが舌は
わが皮膚はわがサーカスを覆ひをり
合掌をひらいて曼珠沙華にする
肉体は何の葉ならむ夏終はる
くちびるを動かせばくる電車かな
土腫れてれんげうの花咲きにけり
かかとからきこえてくるや青嵐
クローバの花をしばらく鼻腔に入れ
おとがいをおろしては見るあやめ哉
我が目より光り出でたる朝の鵙
ねむの葉を参考にして眠りけり
ひたひまで吹けば即ち青嵐
ひたひより吹きぬけてゆく青嵐
「水ヲ呑ミ粗大ナ航空図ヲ愉シム」は、航空図全体が見えてしまっているのに「愉」しんでおり一見例外的な句だが、これも「水ヲ呑」むことで開かれた身体が航空図と融合しているためと取れる。統一された身体像を得ることは、分別なき全体性=世界の中心からの疎外、取り替え可能な誰かになることへの同意であり、これは言語という自律した体系に取り込まれることと並行している(言語上の自我「わたし」は誰にでもなる空虚なシニフィアンである)。かくして青鞋のもう一つの際立った特徴、「言語としての事物」が現れる。
物を読むごとくに靴の裏を見る
流れつくこんぶに何が書いてあるか
しかじかと貨物列車の通りゆく
うかんむりの空を見乍ら散歩する
斎藤環によればフロイトとラカンの画期的な業績は、純粋なイメージなどというものは存在せずイメージはつねにシニフィアンから二次的に作り上げられたものだと発想したことだという。これらの句はイメージ成立という事件の根底に立っているといえる。
視覚言語だけでなく、世界の表徴は嗅覚、聴覚に及び、特に無機的なものに対しては青鞋は必ずその匂いを嗅ぐ。「皿嗅げば皿のにおいがするばかり」「雪渓の写真の匂ひ嗅ぎにけり」「眼前にとまりしバスを嗅いで乗る」。
こうした身体が匂いの強いものに出くわすと「草餅のなさけ容赦もなき匂ひ」「海産物やぶれかぶれの匂ひして」ということになる。
事物に何が書いてあるのかが読み取れてしまった例外的な句が一つある。
人間を撲つ音だけが書いてある
ここでも世界は身体の破壊を志向している。ついでにもう一つの代表句に触れれば「想像がそつくり一つ棄ててある」の「想像」は単なる秘められた妄想などといったものではなく、全体が見えてしまった自己像と見るのが妥当であろう。この句の衝迫力は自己像幻視=ドッペルゲンガーのそれである。
鏡像段階以前と以後(または現世と死後)の境目を詠んだ句も多い。「砂浜が次郎次郎と呼ばれけり」がその好例で、ここでは砂浜という境界において空虚な不定形が言語による名づけへと参入する事件の瞬間が描かれている。新宮一成によれば飛ぶ夢は新しい次元への参入と密接な関わりがあり、その根底にあるのは言語への参入体験だという。飛ぶことは言語を話すことである。青鞋の句では実にいろいろなものが飛ぶ=話す。
貝のほか飛ぶもののなき時間かな
蝶が飛び大腿骨が飛びにけり
「いちじくになって旅客機からおりる」では人為的に大勢飛ばされた結果、青鞋は「一字句」となって言語に組み込まれてしまう。「かあかあと飛んでもみたいさくらかな」では桜の現前に圧倒されそれを表出するのに鳥と化すが、死を連想させる烏となるところが青鞋ならでは。青鞋句においての死は自己像獲得以前への喜ばしい帰還である。それを時間意識に置きかえれば、連続的に展開されることのない凝結した永遠となる。
畦みちの虹を両手でどけながら
虹自身時間はありと思いけり
時間とはともあれ重いキャベツのこと
一時的にしかあらわれぬ虹は時間そのものであり、しかもその時間は両手でどけられる重く凝固した実在である。これは《時間性の抹殺》のある極限的な表現であろう。
足あげたまゝ永久に汐干狩
死と生の境目の半端な姿勢に凝固しつつ異語としての貝を掘る作業。これは青鞋の営み自体の似姿である。青鞋の句は数式めいた明快な文体で虚構の情緒を排しつつ、主体の消滅を志向する。それは言語による分節を失って全体性の海に溶融し、活力を汲み取って新たな生へ立ち戻るといったロマン主義的な死と再生の円環運動とは無縁である。青鞋の俳句世界は金銭に代表される満たせば満たすほどより欲しくなる偽の欲望に背を向け、真の大欲それ自体との一致、完全な享楽としての消滅と戯れているのである。
参考 レイモンド・タリス『アンチ・ソシュール』(未来社)
(『―俳句空間―豈』44号 ANI 2007.MAR.に掲載されたものに加筆)