浩司的膠着








浩司的膠着



関 悦史




 安井浩司の句にはある特異なねじれがある。部分と全体との関係が異様なのだ。

  厠から天地創造ひくく見ゆ  (『句篇』)
  万物は去りゆけどまた青物屋 (同)
 厠は天地創造の外に位置し、青物屋もまた万物と別な場に在る。部分と全体というよりも、全体と全体以外というべきか。『山毛欅林と創造』の書名も同じねじれを示している。安井浩司のカオスの印象の大きな原因はここにあり、いわゆる汎アジア的霊性を帯びた生き物たちの跳梁は主ではない。怪物をいくら並べても、それらが生と死のはざまの領域に住み入っていることが鮮明にならなければ平板な妖怪絵巻ができあがるのみである。
 「もどきという助っ人は、人々がおのれ自身をがんじがらめにする「自然」の中に見出しつつ、いわゆる神の方へ派兵した、もう一つの副次的生命として恰好な存在であったのである」(「もどき招魂」)と安井は言う。「自然」は包容的、親和的な相手ではなく、もどきは「自然」のさらに深奥に生動する全体性としての神に派兵される人ならぬ断片群である。安井は「もどき」としての霊性を担った俳句づくりを目指すと言っているのではなく、「もどき」である俳句の悪意を介して全体性そのものたることを目指すべしと考えている。全体性は死後の領域をも含む。というよりも、ことに初期の句において全体性とは端的に死を指していた。

  鳥墜ちて青野に伏せり重き脳 (『青年経』)
 ここにもねじれと膠着がひそむ。全体=鳥に対して部分=脳の重さが異様であり、一体でありながら脳が鳥から突出しているのだ。鳥が人格をもって見えるのもこの重き脳ゆえだが、ここでは「鳥‐脳」とでも表記すべき複合存在と化した生命が死によって全体に参入しようとしている。この句では全体が二重になっている。脳を含む全体としての鳥、そしてその両者が参入する神とも死とも名指されない全体としての青野である。初期作品の未整理が消化されると「万物は去りゆけどまた青物屋」と同じ構造が得られる。この特異なねじれによって全体に接続される全体以外、これが安井浩司という主体の位置である。

 渚で鳴る巻貝有機質は死して (『青年経』)
 始まりに位置するこの句も、今になれば単なる虚無的心象などという読解には収まらないことがわかる。巻貝は死んだにも関わらず鳴っているのではなく、死によって別次元の生に到達しようとしているのだ。「死鼠を常のまひるへ抛りけり」も同様。「海辺のアポリア」で安井は芭蕉の「暑き日を海にいれたり最上川」「閑さや岩にしみ入蝉の声」を引き、「いれたり」「しみ入」の呪気と邪気に自分と俳句形式との関わりの根幹を見出している。これも別次元への参入の話である。

  菩提寺へ母がほうらば蟇裂けん (『汝と我』)
 血縁者も自己と他者の間に位置する周縁的存在の一つ。ここでは「母」がわが家から死後の虚空へいたる入り口としての菩提寺と、個体的完結に自足する蟇との媒介者となる。「汝も我みえず大鋸を押し合うや」では汝との関係によって我の完結は蟇と同じく引き裂かれる。汝は「有機物」としての我を死なせるために到来する者であり、母も汝も「全体」のひとつの相である。

 膠着は一冊の句集全体の“構築性”という形でも現れる。代表句「御燈明ここに小川の始まれり」や「麦秋の厠ひらけばみなおみな」にしても御燈明の湧出感から小川への飛躍は直感的に容易に受け入れられるがこの句のみから燈明(死)から別乾坤(小川)への参入という契機を見て取るのは容易ではないし、厠が後に天地創造の外の特権的な場になりおおせることも一句からだけではわからないのだ。単独での鑑賞は美しい誤解に終わる。そうした事情がまた安井浩司に永遠に未知の作家の相貌を帯びさせる。個別に見ても意味上明確な切れを含む句は多くはない。

 個別ではわかりにくいもうひとつの特徴は、五感を介した事物の再現(表象)の排除である。景の提示がなされる場合も肉眼では捉えられぬその都度一回限りの認識の提示であり、怪物たちの出会いと膠着は感覚で捉えうる世界を殺戮する。また浩司句には情の直叙もなく、箴言じみた定義づけで外界を適度な距離に安置する身振りも、あの世の視点を繰り込んで現在の安息を得ようという欲望もない。自然や外界とのあるがままの姿での宥和の可能性は、ない。

 浩司句は見かけの印象とは裏腹に、隠喩・寓意・象徴によって読み解かれることを期待していない。多義性のノイズは乏しく、律法や数式のような構造性が堅固な俳句言語を形作る。虚空の新たな構造の発見こそが俳人のなすべき仕事の中核にあるのだ(新かなづかいの採用も、表記と発音のずれによって虚空めいたふくよかさを含む旧かなより、密着した新かなの方が虚空に鋲を打ち込むような作業に合っていると直観されたためだろう)。

  秋雨にみがきにしんと遊びつくす (『中止観』)
  ズボンよりみがきにしんを友に出す(同)
 このどこにも還元できない単独性。個別には鑑賞が成り立ちがたいにも関わらず、いやそれゆえにこそ単独性が強固なのだ。単独者のみが普遍・神に直面しうるというキルケゴール的な事情が一句一句にしみとおっている。浩司句においては特に意味や内容よりも、その行動・様態が読まれなければならない。枇杷男や重信との親近性は技法や素材のレベルにではなく、全体の中にありながら全体以外として締め出され、締め出されつつ膠着するどんな安息からも遠い未聞の世界を窺う主体の絶対的な孤独にある。「釣り過ぎの鮒を戻せどただ死ぬだけ」。死が必ず全体への参入に通じるわけではない。単なる数量的過剰しか得られぬ鮒はただ死ぬ。こういう恐ろしい寂しさをたたえた句が『句篇』に至って現れる。

 中沢新一は明治期に「幸福」と訳された「happiness(英)」「bonheur(仏)」等が皆本来日常的な時間を垂直に切り裂いて人間の世界に突然に降ってくるものであるということを指摘している。俳句の「切れ」はこの切れ目を制度化したものとも取れ、だとすれば全体そのものを目指す安井の営為は幸福とは縁遠い。これは「俳句とは何か」ではなく自分にとって「なぜ俳句なのか」を問うてきた作家が逆説的に達成した、俳句形式の可能性の中心の、完璧な陰画である。

 後年あらわになる天地創造のモチーフは小さな巻貝の内にはじめから一度に与えられていた。その全景を明るみに出し続ける過程がそのまま安井浩司の歩みである。


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