六林男は、今日?








六林男は、今日?



関 悦史




 今回の橋本氏の発表はインターネットの普及による俳句受容変容の可能性を念頭に、六林男の句に現れる読者になじみの薄い語を洗いなおすことから始まった。「点在の制動靴のみ白き冬」という句には「制動靴」の画像がレジュメに付く。人が履く靴ではなく、線路に設置する列車用の過走防止装置だと元々註はついているのだが読み手は「靴」の語感に引きずられがちであり、検索画像の有無で印象が変わる。

 一方宇多氏の文学的回想は無骨で愛情深い六林男の像を「蟹股で歩く」「くねくねした字を書く」といった運動する身体のレベルでまで呼び起こし、この両者の接近法の交点に、本来リリカルな資質を多分に持ちながら戦争という大テーマの作家として生成せざるを得ず、テーマ喪失とともに失速していく六林男の像が浮かび上がった。「射たれたりおれに見られておれの骨」といった把握もリリカルさの土台がなければ成り立たなかったのではないか。

 会の後半、戦争の記憶が薄れてゆく中で六林男の句は残るかという話になった(市場に残るという意味ではなく、ここでは俳句表現史の上で参照され続ける作家であり得るかの意ととる)。その可能性を探るための「制動靴」の検索でもあったのだが、戦争が残れば残る作品というのは抵抗の形をとった当の時代状況への依存に過ぎず、むしろ六林男の句を読むという体験は時代が過ぎ去った後にこそ始まる。これは背景を知らずとも作品を楽しむことはできるし、逆に作品によって歴史への興味が喚起される可能性すらあるといったこととは別の話である。現在にとって六林男が何でありうるかが問われるのは今後のことなのだ。

 私見では六林男と俳句の現在との間に横たわる最も大きな断層は、操車場の臨床的知識や戦争の記憶の希薄化などではなく、俳句形式を通して世界と自己との関わりを構築し定位しようという欲望の希薄化にあり、これは句の姿としては、読み手を検索に走らせる程の異物性を帯びた作品が乏しくなったという平板化として現れる。難語やテーマ性の過多が衰弱のひとつの相である場合もありはするのだが、大方は理解不能なものとしての「世界」や「存在」、つまり他との関わりを初めから欠いての日常性志向と見える。

 橋本氏は東浩紀にも触れていたが、こうしたデータベース的消費に最も適しているのが他ならぬ有季定型の写生句であり(私も植物の季語を何度検索したことか)、検索手段の発展と有機的な意味連関としての世界の消失とが現在同時に進行している。六林男が残るか否かは、世界‐自己を探究する具としての俳句形式の消長、そしておそらくは愛の消長と同調することになるだろう。





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