能動性と受動性あるいは《見る》と《聞こえる》




 能動性と受動性あるいは《見る》と《聞こえる》

関 悦史

 「動作」に着目して「わかる/わからない」という意味的二分法を超えた作品受容への道を探るというのが今回の試み。個々の例句の鑑賞はそれなりに深まったが、それがテーマ全体へはほとんどフィードバックされなかったように思う。実際に句に詠まれた「動作」と、非言語的領域(あるいは非明示的領域)の伝達というテーマとの間に齟齬があったのだ。

 「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」(能村登四郎)にせよ「枯芝の枯木の影を踏み遊ぶ」(山西雅子)にせよ、動作そのものが読者に肉体的な反応を引き起こさせ、全的共感へ誘うといった作りではない。ここでの動作は、象徴や寓意を成り立たせるための構成要素のひとつという位置しか占めておらず、動作が詠みこまれていてもいなくても、句自体は静的で無時間的なひとつの場面を呈示するだけである。槍を投げてはそれを拾う無償の反復の中に若々しい生命の孤独さを体現する私。広大な死の影の中に稀有な偶然のように生まれ《存在》という遊びを遊ぶ私。

 主体を明示されない動作は語り手(作者に限りなく近い面影の)が主体と取るのが俳句鑑賞の通例。ここでの読者はポーズや演技を見せられている観客に近い。そして《見る》という動作は、五感の中で最も対象物との間に冷めた距離をはらみやすい。読者が句の世界に融即するには、この語り手の主体と能動性が邪魔になるのだ。実際例示された句はほぼ全てが能動態の句だったが、ここではむしろ受動性に着目すべきではなかったか。《生まれる》という事象がもともと受動であり、こちらの方が生命にとってはより根源的といえる。さらにいえば視覚よりは聴覚。幻覚の中で最も発症しやすいのが幻聴であり、幻視は滅多にあらわれない。人は耳から気がふれる。芭蕉であれば例示された「涼しさを我宿にしてねまる也」よりも「閑さや岩にしみ入蝉の声」の、無防備な耳を襲う《聞こえる》声の方が句の全的受容を強いてはこないか。

 発表では、エリオットを引いて山本健吉がいう「非個性的なものの声」にも言及されたが、これは言語化不能な領域というよりも隠喩等による意味の重層化を指すらしい。であれらばこれも演算が複雑化しただけで意味的二分法の延長。にも関わらず「汝も我見えず大鋸を押し合うや」(安井浩司)が瞬時にわれわれにあるリアリティを伝えてくるとしたら、それは「汝」との関係性導入により、世界に投げ込まれた「我」の受動性が呼び込まれているのが一因ではないか。


(第97回現代俳句協会青年部勉強会報告  「現代俳句」2006年11月号掲載)


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